自然な日本語

栢木 最近の翻訳では、とくに文芸翻訳の世界では、以前よりもリーダビリティ、つまり読みやすさを重視する傾向があります。日本語として自然な、熟(こな)れた文章にすることが求められます。僕はこれまでは主に専門書や学術論文を訳してきたのですが、そういう分野ではいわゆる直訳調がまだまだ幅をきかせているところがあって、そのため僕の訳文にはどうも硬さが抜けないところがあります。ですので、『よい移民』の訳文も「読みにくい」と一部から不評を買っています(笑)。正直「まだまだ下手だな」という自覚はあります。そういうわけで僕も、もっと読みやすい訳文を作れるように、日々勉強はしているのですが、その一方で、そもそも「自然な日本語とは何なのか」という疑問を持っています。果たして、それを目指すことを翻訳のゴールにしてよいのか、とも。翻訳というのは、もともとの言語環境のなかには存在しない物語と出合ったり、主張や論理を考えたりするためにあるわけですよね。今までにない、新しいことを考えるためには、語彙や語法や語感を刷新することが必要になります。ですから、今まで使いこなしてきた日本語の枠組みにうまく当てはまっているという意味での「自然さ」や「読みやすさ」のみを追求するのは、違うのではないかと思うのです。
これは理想論ですが、それほど苦労せずに日本語として読める一方で、英語を読んだような気になる、英語的な響きやロジックが感じられるような、そういう訳文を作りたいと思っています。と、ちょっと大げさに言いましたが、翻訳者はだれしも、原語の雰囲気やリズムを残すことと、日本語としての読みやすさのあいだで、バランスを取りながら、文体を選んでいるはずです。僕の場合、そのとき原語のほうに重心を置きがちと言いますか、日本語としては不自然さが残るようにあえてしているところがあるのです。単純な例ですが、英語では自分の父親のことを話す際、「彼(he)は」と代名詞を使います。これはドイツ語でもフランス語でも、あるいは中国語でも同じですね。これをそのまま日本語にすると違和感が出るから、そういうときは「父は」と訳すのがよい、と翻訳技法のテキストなどには書いてあるわけです。でも、自分の父親を「彼」と名指すということ自体に、その国の家族関係というか、人間同士の距離感というか、大げさに言えば、社会のなかでの「個」のあり方が反映されているはずです。僕はそういうものもひっくるめて伝えるのが翻訳の仕事なのではないかと思っていますので、多少違和感が出ようが、だいたいは「彼」のままにします。こういう場合はむしろ、違和感を出さないと意味がないんじゃないか、とすら思います。

翻訳というのはただ正しく訳せば良いのではなく、読み手が読みやすい訳文を作ることが大切です。英語が話せる人が全員英語の翻訳者になれる訳ではないように、翻訳を行うには翻訳の知識と技術、経験が必要なのです。
また、日本語と英語の表現方法の違いや特徴を理解して翻訳を行わないと、英文を訳した際に不自然な訳文が出来上がってしまう、ということがよくあります。
自然な日本語の文章に翻訳するためには、原文に出てくるすべての単語を日本語にする必要はないのです。

外国人がよく使ってしまう、「文法は問題ないが、日本人はあまり使わない不自然な日本語」

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