庵功雄さんが代表を務める

相手のためだけでなく、自分自身のためにやる。庵先生が多数派の人々にその意識を持ってほしいと語るのには、もう一つ理由がある。それは、人は誰しもがマイノリティになりえるからだ。

多文化共生と言語的マイノリティへの情報提供を考える研究グループ。庵功雄さんが代表を務める。

庵 非ネイティブの人が不当な差別を受けることなく、日本社会でも生きていきやすくするためには、まず基本的な言語を理解し、自分の言葉で言いたいことを言えるようになる必要があります。そのためには最初にクリアすべき最小限の「型」を用意し、その訓練ができる環境をつくることが重要です。

この「やさしい日本語」を用いた具体的なコミュニケーションのあり方に話が及んだとき、庵さんはこうも話してくれた。具体的にどの言葉なら「やさしい」といえるのか、どの言い方だと「やさしくない」のか——個々の表現を客観的にジャッジすること自体、現実的には意味がないのだ、と。

“やってあげる”の発想は他人事の状態。“困っている人を助けよう”も“誰もが生きやすい社会にしよう”も真っ当な意見だが、きれいごとだけで多文化共生の実現は難しい。ただ、そう分かってはいても、これまで関わってこなかった人々を社会や組織の一員として心から受け入れるのは、一筋縄ではいかないのが現実だ。だからこそ庵先生は、多数派の人々が、少数派の人々と共に生きる意義があると納得してもらう必要があると言う。

相手に伝わるためには技術よりもマインドが大切だと語る庵先生。「やさしい日本語」の根底に流れるものは何も特別なことではなく、私たちが様々な人の属性にあわせて実践していることと変わりはないのだ。

もちろん、言語をわかりやすく言い換えたり書き換えたりしていく過程で、すべての内容を元の表現同様に伝えることはできない。人によっては重要なニュアンスが削ぎ落とされたり、説明不足となり誤解を生んだりすることも想定される。しかし、「コミュニケーションとは本来、そういう性質のものなんです」と庵さんは語る。

庵 「やさしい日本語」とは何か。私たちは最近、その定義を明確にすることを意図して避けています。もちろん、研究をするうえで用語の定義は重要です。ただ日常で使用する言語に対し、「この言葉を、この順で使ってください」と細かく掲げる意味はないと考えています。

庵 「やさしい日本語」の使用に対して、「“Easy Japanese”を推し進めることは、外国人に対する逆差別ではないか」という声が寄せられることがたしかにあります。しかし、それは大きな誤解だといえます。

また、庵先生は文化的背景の異なる相手とのコミュニケーションは、ビジネス上の商談と似ているとも言う。

庵 今後、日本人の人口は減り続けることが明らかになっています。おそらく、これまで以上に外国の方々を多く受け入れ、一緒に生きていくことになるでしょう。その人たちが日本で暮らし、日本語の母語話者と同じような社会活動ができるようになるために、重要になるのが日本語教育です。

庵 例えば法律や医療などの専門領域に関する情報、行政文書など、日本語の母語話者が読んでも理解しにくい文章がありますよね。それを、その領域に詳しくない人でも理解できるように落とし込んだ言語を、私たちは“Plain Japanese”と呼んでいます。

庵さんのお話を伺いながら、ものごころついたときから自分が当たり前のように使ってきた“言葉”というものは、「人同士がお互いの思いを伝え、一緒に生きていくことを目的として生まれたものなんだ」と再認識していた。一見当たり前のことのように感じるが、今の時代にそれを自覚している人はどれくらいいるのだろう、とも。

特に庵さんが懸念するのが、外国にルーツを持ちながら日本で暮らしている人の中に、親に連れて来られた未成年者など、自分の意志で生きる場所を選択することができない人もいることだ。そうした人たちが日本で問題なく生きていける環境を整える意味で、共通言語を学びやすくする「やさしい日本語」の意義はとても大きいといえる。

庵 言語学には「有標」と「無標」という考え方があります。簡単にいうと「無標」は一般的なもので、「有標」は特別なもの。言葉は多くの場合、後者に対してだけ個別の呼称が与えられます。

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